最後の藁

最後の藁(last straw)というものをご存じでしょうか。ブログのコメントを書いている時に思い出しました。
あるラクダに荷物を積んでいって、最後の最後に藁を一本乗せたら、頑丈なラクダが荷物の重さに倒れてしまいました。その時にラクダが倒れた理由を最後の藁一本の責任にしようとすることを示して言います。もともとたくさん積んであった荷物が問題なのに、最終的にトドメを刺してしまったものの責任だけにしてしまうということです。

最近あちこちで地方競馬の存続が騒がれていますが、その地方競馬の現地の方にとって他人に属する人は「最後の藁」だけを論じて主催者や行政だけを非難したり、またそれだけで存続論を考えたりしがちです。
それは間違っています。存続を語るのであるのならば、恒久的に存続できなければ意味はなく、それを考えるには、まずどうしてこういう状況になったのかの「真因」をしっかり調べてから語るべきなのです。表面に現れる事象(=最後の藁)だけをただやみくもに批評、非難する。それは正に背景を知らない他人だからであり、地元に迷惑がかかるだけで正しい道は見つかりません。

せめて語るなら....自分の今持っている狭い知識だけではなく調べることはちゃんと調べて、批判ではなく建設的で現実的な改善に向かうことを語って欲しいです。でも、それよりなにより、語ったならば自分の手を本当に汚して、そして存続を勝ちとるためのストーリーだった活動をして欲しいです。ストーリーもない場当たり的な発言や行動は、まさに自己満足のためだけのものでしかありません。あるいは、批判を書かず、自分が楽しんだ結果と自分の感想だけを読者と共有すれば、それはそれで楽しい旅日記であり、ある意味地元への貢献といえるのではないでしょうか。

存続の活動をしてきて、道半ばで廃止になった話もいろいろ今まで聞いています。廃止になった事で本当に悔しい思いをした人は、多くを語りません。存続についての難しさを知る故に安易に存続の方法論を語ったりしないのです。

言うだけは易し。それなら言わぬ方がマシ。

でもその経験が他の競馬場の存続につながるのであれば、本当は語って欲しいのですけどね。

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 何を言えばいいのか、すぐに言葉が出てこなくなっちゃうんですよね…。自分の場合は、そういう状態です、今。

てつじん

自分も、今日はその事は書きたく無いので、何も書きません。理性のある感情で書ける時に書こうかと。

なんにせよ、今は語ったら何か語り足りない気がしてしょうがありません。

ではでは。